2011年6月4日

311

そろそろデンマーク旅行記に戻ろうかと思います。
まだ続いてます。。。


ですが、その前に地震当日のことを記録として残しておこう。




2011年3月11日(金)、震災当日。
私は職場(鎌倉)にいました。

その日は休みの人が多く、オフィスには3人しかいませんでした。


地震が起こる時って、ミシッと小さな音がしてちょっと空気が変わるので、
あ、地震が来る、とわかりますよね。

その日もそんな感じでした。


あ、くる。


ゆっくり、ゆっくり揺れ始め、なかなか治まる気配がない。
治まるどころか揺れが大きくなっていく。
なんかいつもと違う、と思いました。

こわいっ・・・

どこまで揺れが大きくなるかわからず、
横にゆっくり揺れて、今まで経験したことない大きな揺れでした。

どうしていいかわからず、机をつかみながら固まってしまいました。

他の2人は出口の確保と言って扉を開けてました。
オフォスは古民家で木造の平屋です。
木造なので家がゆがむと扉が開かなくなるのです。

私は身の安全を確保しようととりあえず机の下にもぐろうとしましたが、
崩れるかもしれないから外へ行こう、と言われ、我に返り携帯だけ持って外へ出ました。
崩れるかもかも、と言われた時はショックでした。
家が崩れるとは現実として感じたことがありませんでした。

外へ出てもしばらく揺れていました。
外の木々も風のせいではなく幹から揺れている様な感じでした。



揺れが治まってしばらく待ってからオフィス内に戻りました。

オフィスは築80年なのに?80年だから?どこも壊れたりヒビが入ったりもしませんでした。
瓦が落ちたり、壁が崩れたりすることもなく、
紙きれ1枚、デスクから落ちているものがありませんでした。

私の席のすぐ上には最近設置した神棚があるのですが、
神棚に乗っている小さな盃や茶碗なども落ちてもおかしくないのに落ちていませんでした。

平屋だから揺れの影響をあまり受けずにすんだのかもしれません。
縦揺れだったらまた違ったのかも。



屋内に戻ってすぐに今度は停電になりました。

すぐに復旧するだろうと待っていましたがなかなか戻りません。
PCが使えないと仕事ができないし、気分的にも落ち着かないし、
とにかく携帯からネットに接続して情報を得たり、
持っていたiPod nanoにラジオ機能があるのでラジオを聞いていました。
そこで三陸沖で震度7ということを知りました。
ただ、震度7がどんな規模なのか感覚としてはわかりません。


業務では、毎日定時にデータを送らないといけないのに、
そのための作業もできなく、電話番号などの情報もPCの中。
停電後1時間くらいはバックアップ電源で通じていた電話も電源が切れ、
携帯電話の電波も徐々に弱くなってきました。

偶然にも3人ともキャリアの違う携帯をもっていて、
auとdocomoは停電後すぐに電波が弱くなったけど、
softbank(私!)はその二人より長く電波が通じていました。


地震後、30分くらいした頃、家族や仙台に住んでいる友人に
安否を確認するメールを送りました。

家族からは割りとすぐに無事の返事が来ましたが、
仙台の友人からは7時半頃ようやく返信が来ました。



電気が復旧する気配がなく、寒くなってきたので、
18時ごろに避難所へ行くことにしました。

市の防災センターの放送で避難所を告げていました。


鎌倉にはあまり大きな通りがなく、車が通る主な通りは大渋滞。
若宮大路という、鶴岡八幡宮の表参道は海まで一直線です。
津波警報がでているため、通行止めとなっていました。


お店も家も街灯も信号も真っ暗で、人が黙々と歩いていて、
空を見上げると星がたくさん見えました。
夜空の黒も真っ黒ではなく、宇宙に漂う星の数々がつくる色のヒダが見えました。


地震という自然現象でもたらされた停電(これは人間の意図的に)によって
改めて意識した空の上の宇宙。
不思議な感じがしました。


避難所となっている小学校へ向かう途中、
コンビニ前にある公衆電話からデータを送る先(東京)に連絡することにしました。

公衆電話は長蛇の列で、テレホンカードは使えず、硬貨のみ。
でも、電話を切った後、硬貨は戻ってきました。
緊急事態の対応に切り替わったのですね。

「え!停電してるんですか?」
と言われ、電話の向こうで
鎌倉、停電してるんだって~
と言う声が聞こえ、とっても距離を感じました。


後から聞いたところによると、色々な機関、企業が集中する東京を停電させないために
周りの地域の電気を落としたそうですね。
特に、鎌倉は観光地で、観光=娯楽ですからね。

電話の向こうの取引先の方も関東で停電している地域があるなんて知らなかった、
という反応でした。 
そうですよね。


JRが止まってしまったので、観光に来ていて帰れないたくさんの人が
駅付近で行き場を失っていました。



避難所の小学校に着くと、いっぱいになったので隣の市役所へ行くよう言われました。

市役所の中も人がいっぱいで、ほとんどが観光客のようでした。
外国人の方もたくさんいました。
不安だったでしょうね。

私達は会議室へ誘導され、クッションのあるイスに座れたので、良かったと思います。
小学校の体育館だと固い床に直接座っていたんじゃないかな。

特に食料が配られたりはしていませんが、給茶機のお茶は自由に飲めました。
観光に来ていた人たちは、買ったお土産を食べていたり、コンビニで食料を調達してきていました。


時々、職員の方が、現状を知らせに各部屋を回ってくれていましたが、
なかなか停電が解除されませんでした。


そこで待っている間にも、緊急地震速報が何度も携帯に鳴り、
(Softbankにはその機能がありません。。。確か1機種のみ。)
電波も繋がりにくく、今日はこのまま市役所に泊まるのかな、とおぼろげに思い始めていました。



21時ごろ、オフィスがある地域の電気が戻ったと職員の方がアナウンスに来てくれ、
私達はオフィスへ戻りました。


オフィスへ戻ってブレーカーを上げて電気がついた時は
おー!!
と思わず声があがりました。


突然の停電でしたが、サーバーなども運よく無事で、
その日の仕事を片付け、近くのホテルに電話をかけ始めました。

1人は車通勤で近いので問題ないのですが、
私ともう一人は電車が止まっていると、歩いては帰れない距離なので
ホテルを探してくれていたのです。
オフィスは寒いし、ストーブ付けたままというのも怖いので、
最悪、市役所で電車が動くのを待ってもいいと思っていましたが、
他の二人が電話を掛けまくっていたので私も・・・

で、繋がって、1部屋空きがあるといわれたのが
由比ガ浜の海岸沿いのホテル。

海岸沿いで大丈夫かな、と思いましたが、
ホテル側が受け入れているなら大丈夫なんだろうな、と思いそこへ泊まることにしました。


残りの1人はオフィスに泊まり、私は車通勤の人にホテルまで送ってもらい、
部屋についてホッとしたのはもう12時ごろ。
夜ご飯を食べる気にも、空腹にもなりませんでした。


ここで初めてテレビを見て、東北地方の惨状を知ったのです。

言葉を失ったし、目を疑ったし、涙が止まりませんでした。


余震が怖かったのでお風呂にも入らず、歯と顔を洗っただけで、
フカフカの羽毛布団にくるまりながら、テレビを見ていたのですが、
相当疲れていたみたいで、余震が怖かったくせにいつの間にか爆睡してました。


翌朝、少し落ち着いてから思ったのは、
部屋を予約したときに部屋の広さや布団の数など聞いておいて、
避難所で帰れなくて困っている小さい子を持つお母さんなどに声をかけて
泊めてあげればよかったということ。
ホテルでしたが私の部屋は和室で8畳くらいあり、フカフカの布団も4組置いてありました。
余裕がなく、気が回らなかったことに反省しました。


つづく…

2 件のコメント:

嫁ビギナー@デンマーク さんのコメント...

今私がコメントするのもどうかと思ったのですが(個人的にお祝いごとがあったため。すみません。)・・
決して忘れてはいけないという意味でのmimihanaさんのこの記録、しっかりと読ませていただきました!

mimihana さんのコメント...

>嫁ビギナー@デンマークさん

いえいえ、コメントありがとうございます!
嬉しいです。

記録として書きながら、混乱はしたけどラッキーだったことに感謝して、できることをしていかないと、と思いました。
そして、教訓にしないといけないですね。